日本の城ほど優美で素晴らしい建造物はないと思い、あちこち旅行するたびに、城や城跡を訪ねてきました。
日本の国宝に指定された姫路城、松本城、彦根城、犬山城の四つの城はもとより、国の重要文化財に指定されている弘前城、丸岡譲、松江城、備中松山城、伊予松山城、高知城など、その他、指定は受けていませんが、多くの復元された城を見てきました。
私が見て回った城の多くは、みな威風堂々として、まさに日本の建築美を誇るかのように見事なものでした。
ところが、最近復元されたものは別にして、城の中へ一歩入ると、外観からは想像できないお粗末さで、階段は急勾配で、まるで倉庫の中にでも入ったかのようでした。
それに、建物の中に敵の侵入を防ぐ石落しのスペース、また、鉄砲や弓矢用の射撃の穴が設けられていることに、城の外観からは想像もできないものがあることに驚かざるを得ませんでした。
城とは、威厳を示すとともに、外敵の侵入を防ぐ建物であったのです。その証拠に天守閣の入り口にたどり着くことが容易でないばかりか(迷路)、その途中は鉄砲や弓矢の射撃にさらされているのです。それ用の穴が各所に設けられています。これでは、城の建物の入り口にたどり着くことさえできない、至難の業であると言わなければなりません。
城の外観から受ける印象に私たちは惑わされますが、城はあくまで味方を守り、敵を威圧し、侵入を拒み、侵入した敵があれば、容赦なく殲滅するための建物だったのです。
外観に合わぬお城の内部かな
日本の国宝に指定された姫路城、松本城、彦根城、犬山城の四つの城はもとより、国の重要文化財に指定されている弘前城、丸岡譲、松江城、備中松山城、伊予松山城、高知城など、その他、指定は受けていませんが、多くの復元された城を見てきました。
私が見て回った城の多くは、みな威風堂々として、まさに日本の建築美を誇るかのように見事なものでした。
ところが、最近復元されたものは別にして、城の中へ一歩入ると、外観からは想像できないお粗末さで、階段は急勾配で、まるで倉庫の中にでも入ったかのようでした。
それに、建物の中に敵の侵入を防ぐ石落しのスペース、また、鉄砲や弓矢用の射撃の穴が設けられていることに、城の外観からは想像もできないものがあることに驚かざるを得ませんでした。
城とは、威厳を示すとともに、外敵の侵入を防ぐ建物であったのです。その証拠に天守閣の入り口にたどり着くことが容易でないばかりか(迷路)、その途中は鉄砲や弓矢の射撃にさらされているのです。それ用の穴が各所に設けられています。これでは、城の建物の入り口にたどり着くことさえできない、至難の業であると言わなければなりません。
城の外観から受ける印象に私たちは惑わされますが、城はあくまで味方を守り、敵を威圧し、侵入を拒み、侵入した敵があれば、容赦なく殲滅するための建物だったのです。
外観に合わぬお城の内部かな
昨日、大阪長居陸上競技場発着でマラソンの五輪代表を選考する競技が行われました。その結果、重友梨佐(24)(天満屋)が2時間23分23秒で優勝し、五輪代表の座を確実にしました。
期待された福士加代子(29)は、終盤近くまでトップを争っていたものの、競技場へ戻ったときは第9位で、多くの人の期待を裏切る結果となりました。
私は初めから、彼女は中距離ランナーだから長距離のマラソンでは期待できないと思っていましたから、予想通りの結果に驚きも失望もしませんでした。
野口みずき(33)選手は故障で今回は出場せず、次回名古屋で行われる選考会でロンドン五輪の出場を目指すそうです。
若くはないので、果たしてどうなることかと案じられます。
私は、子供のころ運動神経が未発達?で、おまけに他人と競うことが好きではなかったので、走り競争はいつも後ろから数えたほうが早い有様でした。
上の学校に進んで行われたマラソン競技への参加は、嫌で、苦手で、参加しないでいい理由をあれこれ考えていたものです。
あんな苦しい、人間の生理を無視したマラソン競技が五輪でも競われることに、私は少なからず疑問を感じないではおれません。
でも、重友さん、ロンドン五輪には日本の代表で行くのですから、頑張ってくださいネ!
私はとにかく、多くの人が期待していますよ。
ロンドンへなびくは草木だけでなく

期待された福士加代子(29)は、終盤近くまでトップを争っていたものの、競技場へ戻ったときは第9位で、多くの人の期待を裏切る結果となりました。
私は初めから、彼女は中距離ランナーだから長距離のマラソンでは期待できないと思っていましたから、予想通りの結果に驚きも失望もしませんでした。
野口みずき(33)選手は故障で今回は出場せず、次回名古屋で行われる選考会でロンドン五輪の出場を目指すそうです。
若くはないので、果たしてどうなることかと案じられます。
私は、子供のころ運動神経が未発達?で、おまけに他人と競うことが好きではなかったので、走り競争はいつも後ろから数えたほうが早い有様でした。
上の学校に進んで行われたマラソン競技への参加は、嫌で、苦手で、参加しないでいい理由をあれこれ考えていたものです。
あんな苦しい、人間の生理を無視したマラソン競技が五輪でも競われることに、私は少なからず疑問を感じないではおれません。
でも、重友さん、ロンドン五輪には日本の代表で行くのですから、頑張ってくださいネ!
私はとにかく、多くの人が期待していますよ。
ロンドンへなびくは草木だけでなく

私が勝手に名づけた愛称“フラワーデイ”は、昔、私の腕に抱かれて片言を喋っていました。それが、今は3児の母親です。
幼児のとき、たびたび母親に連れられてわが家へやって来て、中学校の体育館の屋根が見えるナス畑の横で、私の腕に抱かれた彼女の写真が残っています。3児の母親になっているのが、信じられないような気もします。
幼児のときの姿を知り、成長した今の姿を見ると、どうしても「赤の他人」とは思えず、自分の分身でもあるかのような気さえしてくるのです。
私が会社勤めをしていたとき、正月に一緒に遊び、写真を撮った友人の子供たちは、いまではそれぞれ会社重役夫人や大学教師夫人になり、末の泣き虫の男の子に至っては、会社社長として活躍しています。そんな姿を見ると、昔のことを思い出して不思議な気がしてなりません。
会社の2階事務所で、事務職員が連れてきていた小学低学年の女の子と追いかけごっこをして遊んだことがあり、とても楽しかったことが記憶に残っています。
その女の子が、いつの間にか中学・高校生となり、中国へ留学したのも束の間、卒業して京都を車販売店に就職したと聞きました。その子が何と今は埼玉の販売店へ転勤になったと言うのです。これらのことはすべて、女の子の母親から聞きました。
その女の子の幼いころ、沖縄の守礼の門の前で私が抱いている姿や海で一緒に遊んだ写真が残っています。その子の母親によれば、そうした思い出は深く女の子の記憶に刻まれ残っているそうです。
私の膝に座ることを争った孫たちもすっかり大きくなりました。男の子は横浜方面で暮らし、女の子は昨年11月に二十歳の誕生日を迎え、今は大学生生活を続けています。
過ぎてみれば時の経つのは早く、幼児のとき・子供のとき私が出会った子は、大きく成長しても、「赤の他人」という感じがしないのです。
出会いし子赤の他人と言うなかれ


幼児のとき、たびたび母親に連れられてわが家へやって来て、中学校の体育館の屋根が見えるナス畑の横で、私の腕に抱かれた彼女の写真が残っています。3児の母親になっているのが、信じられないような気もします。
幼児のときの姿を知り、成長した今の姿を見ると、どうしても「赤の他人」とは思えず、自分の分身でもあるかのような気さえしてくるのです。
私が会社勤めをしていたとき、正月に一緒に遊び、写真を撮った友人の子供たちは、いまではそれぞれ会社重役夫人や大学教師夫人になり、末の泣き虫の男の子に至っては、会社社長として活躍しています。そんな姿を見ると、昔のことを思い出して不思議な気がしてなりません。
会社の2階事務所で、事務職員が連れてきていた小学低学年の女の子と追いかけごっこをして遊んだことがあり、とても楽しかったことが記憶に残っています。
その女の子が、いつの間にか中学・高校生となり、中国へ留学したのも束の間、卒業して京都を車販売店に就職したと聞きました。その子が何と今は埼玉の販売店へ転勤になったと言うのです。これらのことはすべて、女の子の母親から聞きました。
その女の子の幼いころ、沖縄の守礼の門の前で私が抱いている姿や海で一緒に遊んだ写真が残っています。その子の母親によれば、そうした思い出は深く女の子の記憶に刻まれ残っているそうです。
私の膝に座ることを争った孫たちもすっかり大きくなりました。男の子は横浜方面で暮らし、女の子は昨年11月に二十歳の誕生日を迎え、今は大学生生活を続けています。
過ぎてみれば時の経つのは早く、幼児のとき・子供のとき私が出会った子は、大きく成長しても、「赤の他人」という感じがしないのです。
出会いし子赤の他人と言うなかれ


1962年9月に私が京都に出てきてから、もう50年にもなろうとしています。
京都でも間借りやアパート・貸家などでの転居を繰り返し、現在の住まいを購入して暮らし始めたのは(1977年)、今から35年前のことでした。こんなに長く同じところに留まることになろうとは、私の個人歴史の中で稀有なことです。
現在の私の住居地は、自然災害のない地域で、テレビの予報を見聞きしても、全く災害予報の出ない地域です。
この地域は、桓武天皇が藤原氏の影響や因習を嫌って平城京からの遷都を考え、長岡京を造営し始めました(784年)。長岡市、向日市、京都市の一部を含む地域です。
長岡京を造営中に自然災害に遭遇し、桓武天皇が再び遷都(平安京)を決心されたのは、長岡京の造営地が皇太子の相良親王に呪われた地である思ったからでした。
昔のことはわかりませんが、いま私の住んでいる周辺地は自然災害のない、住環境としては申し分のない場所だと思います。
近くの駅から京都駅まで、10分もかかない距離です。
すでにJRの新駅が設けられ、阪急線の高架工事も始められ、さらにキリンビールの工場跡地が再開発されつつあり、また、それに合わせるかのように農地の区画整理が勧められ、宅地化されつつあります。
発展途上中のこの地は、今後、騒音は増してくるかもしれませんが、自然災害がなく、買い物・交通の便が極めて良いとあっては、住居地として人が集まってくることでしょう。
波乱なき暮らしを願う齢となり


京都でも間借りやアパート・貸家などでの転居を繰り返し、現在の住まいを購入して暮らし始めたのは(1977年)、今から35年前のことでした。こんなに長く同じところに留まることになろうとは、私の個人歴史の中で稀有なことです。
現在の私の住居地は、自然災害のない地域で、テレビの予報を見聞きしても、全く災害予報の出ない地域です。
この地域は、桓武天皇が藤原氏の影響や因習を嫌って平城京からの遷都を考え、長岡京を造営し始めました(784年)。長岡市、向日市、京都市の一部を含む地域です。
長岡京を造営中に自然災害に遭遇し、桓武天皇が再び遷都(平安京)を決心されたのは、長岡京の造営地が皇太子の相良親王に呪われた地である思ったからでした。
昔のことはわかりませんが、いま私の住んでいる周辺地は自然災害のない、住環境としては申し分のない場所だと思います。
近くの駅から京都駅まで、10分もかかない距離です。
すでにJRの新駅が設けられ、阪急線の高架工事も始められ、さらにキリンビールの工場跡地が再開発されつつあり、また、それに合わせるかのように農地の区画整理が勧められ、宅地化されつつあります。
発展途上中のこの地は、今後、騒音は増してくるかもしれませんが、自然災害がなく、買い物・交通の便が極めて良いとあっては、住居地として人が集まってくることでしょう。
波乱なき暮らしを願う齢となり


信越本線の柏原駅(現在、黒姫駅)に降り立ったとき、雪が降り始めていました。
友人Sの出迎えを受けた翌朝、辺り一面、雪で真っ白に覆われ、さっそく野尻湖畔の土手でスキーの練習を始めたのでした。初めてのスキーでしたが、どうにか滑れるようになると、彼の住居の近くの丘陵に出かけて滑る毎日でした。
当時私は東京にいましたが、Sの誘いを受けて、ひと月近く、彼の住まいに世話になり、スキーに明け暮れる日々を過ごしたのでした。
後年、私は水戸にいて、東京に行くときは常磐線を利用していました。
その日私は東京に向かい、上野駅に降り立ったとき、駅の構内で偶然S友人の姿を見かけたのです。懐かしさにあまり駆け寄ると、彼の傍には女性が立っていました。彼は女性を同伴していたのです。
それから数年して、彼は結婚して新世帯を持ち、東京の郊外に居を構えていました。
彼の奥さんになったのは、てっきり上野駅構内で彼と一緒のところを見かけた彼女に違いないと思った私は、上野駅で出会った時のことを話したのです。
ところが奥さんは、「私は上野駅に行ったことも、あなたと会ったこともない」と、言うではありませんか。私は愕然としました。上野駅の構内で見かけたのは、彼の別な彼女だったと言うことになり、彼の艶福家ぶりに驚いたものです。
友人Sは、京都に流れ着いた私の許を訪ねてくれたこともありました。
後年、彼は奇妙な病魔に取りつかれ、治癒しないま帰らぬ人となりました。葬式に私は参列しないままでした。葬式が済んで後日、彼の奥さんから、これまでの彼と私との親交を懐かしむ電話がありました。しかし私は風邪気味で熱で頭がもうろうとしていたため、ほとんど喋らず終いでした。
後でそのときのことを弁解し、お詫びしようと思いながら、その機会はなく、年月は無情に過ぎて行くのみでした。せめてブログ上でお詫びしたいと思います。
「その節は、奥さんすみませんでした、たいへん失礼しました」
Sは、私より2歳ほど年上でしたが、かけがえのない友人でした。年が経てばたつほど、そう思います。
思い出は懐かしくあり苦味あり


友人Sの出迎えを受けた翌朝、辺り一面、雪で真っ白に覆われ、さっそく野尻湖畔の土手でスキーの練習を始めたのでした。初めてのスキーでしたが、どうにか滑れるようになると、彼の住居の近くの丘陵に出かけて滑る毎日でした。
当時私は東京にいましたが、Sの誘いを受けて、ひと月近く、彼の住まいに世話になり、スキーに明け暮れる日々を過ごしたのでした。
後年、私は水戸にいて、東京に行くときは常磐線を利用していました。
その日私は東京に向かい、上野駅に降り立ったとき、駅の構内で偶然S友人の姿を見かけたのです。懐かしさにあまり駆け寄ると、彼の傍には女性が立っていました。彼は女性を同伴していたのです。
それから数年して、彼は結婚して新世帯を持ち、東京の郊外に居を構えていました。
彼の奥さんになったのは、てっきり上野駅構内で彼と一緒のところを見かけた彼女に違いないと思った私は、上野駅で出会った時のことを話したのです。
ところが奥さんは、「私は上野駅に行ったことも、あなたと会ったこともない」と、言うではありませんか。私は愕然としました。上野駅の構内で見かけたのは、彼の別な彼女だったと言うことになり、彼の艶福家ぶりに驚いたものです。
友人Sは、京都に流れ着いた私の許を訪ねてくれたこともありました。
後年、彼は奇妙な病魔に取りつかれ、治癒しないま帰らぬ人となりました。葬式に私は参列しないままでした。葬式が済んで後日、彼の奥さんから、これまでの彼と私との親交を懐かしむ電話がありました。しかし私は風邪気味で熱で頭がもうろうとしていたため、ほとんど喋らず終いでした。
後でそのときのことを弁解し、お詫びしようと思いながら、その機会はなく、年月は無情に過ぎて行くのみでした。せめてブログ上でお詫びしたいと思います。
「その節は、奥さんすみませんでした、たいへん失礼しました」
Sは、私より2歳ほど年上でしたが、かけがえのない友人でした。年が経てばたつほど、そう思います。
思い出は懐かしくあり苦味あり






日本の城








