2009年
11月
29日

辿る人生の不思議
 中・高時代のいつごろであったか、授業の休み時間になると、体型の小柄な者が
集まり、野球に興じていました。

 野球と言っても硬式や軟式のボールがあるわけでなく、もちろんグローブやバット
もなく、すべて自家製のものでした。ボールは布を丸めたものでしたから、グローブ
は必要ありません。バットはどこかで拾ってきた棒切れを使っていたようです。
 いまから思えば、物資の乏しい時代でした。

 はその草野球のグループに参加していました。
 教室での席は前列に近く、私も彼の近くの席でしたから、毎日のように顔は合せて
いました。個人的に深い付き合いはなかったので卒業後どうしたのか、進学したのか、
就職したのか、知りませんでした。

 知ったのは20年近く経ってからのことです。
 その頃私は各種学校の手伝いをしていました。そこへ東京の(同級の)友人から電話で、
は京都で幼稚園と学校を経営している人の娘と結婚し、養子縁組をして姓が変わって
いるはずだ、との連絡がありました。
 勤務先の私の同僚が各種学校連盟の役員もやっていたので調べてもらうと、たしかに
私と同年齢の者がいるとのことでした。

 さっそく電話を入れました。電話に出てきたのは彼の細君でした。彼は外出中でしたが、
いろいろ聞いてみると、であることに間違いないようです。
 養子縁組で彼の姓はに替わっていました。

 その日の夕方、からに姓が変わった、彼から電話があり、久々に学生時代に聞いた
懐かしい声を耳にしたのです。
 近日中に会う約束を交わし、電話を置いたのでした。<つづく>

               あの時代布を丸めて草野球

<中・高時代、草野球などのグランドを見下ろしていた蔵王岳>
蔵王岳
 
2009年
11月
28日

故郷を象徴する桜島
 桜島は私の故郷・鹿児島を象徴する山であり、内にドロドロの真っ赤な溶岩を抱え
ている火山でもあります。
 鹿児島県の学校の校歌には、必ずと言ってよいほど“桜島”や、それを浮かべる
錦江湾”がうたわれています。

 私が学んだ中学(工業学校)・高校の校歌の一節にも、“桜島”がうたわれていました。
 しかし歌詞のなかに、「打つ墨縄の一縄は……」といった古風な表現があり、現在の
校歌に新しくされました。新しい校歌にも、“桜島”とか“錦江湾”などの言葉が使われ
ています。このように桜島は、故郷・鹿児島と切っても切れない密接不可分の関係にある
と言わなければなりません。

 幼児のころの桜島の思い出といえば、家族そろって遊びに出かけて、喜んで駈けた
溶岩道路で転倒して頭から血を流したことだけです。
 小学生時代は特に桜島に関しての思い出はありません。

 中・高生になって桜島は身近なものになりました。
 学校への往復、また教室の窓から桜島やそれが浮かんで見える錦江湾を6年間
も眺め続けてきたからです。

 桜島は天気が良くて噴火しない日には勇姿を見せますが、いったん噴火すると灰を
降らせ、風向きによって、日中でも傘をさした歩かなければなりません。
 外出は控えなければならないし、洗濯物は干せないし、桜島が噴火する間は憂鬱な
日々が続いていました。

 祖父の話では、むかし桜島が噴火したとき、夜は火柱が立ち、絶え間なく噴火する
地響きに村の人は恐れをなし、避難する騒ぎがあったそうです。

 桜島はいくつもの顔を持っていますが、私たち故郷を離れて暮らしている者にとって、
桜島は常に穏やかな顔しか思い浮かばない、懐かしい火山の島なのです。

               象徴の山の噴火の懐かしき

桜島
さくら島

               衆目を集め仕分けのショー終わる
 
2009年
11月
27日

メジロに明けくれた日々
 夏が過ぎて秋になると、鳥は群れをつくり、大空や野畑を舞い飛びます。ハトも
そうですし、雀もそうです。

 私が子供のころは、庭の梅や椿が開花するころ、花の蜜を求めてメジロが群れで
押しかけてきていました。

 中学生のころ私は、メジロを3,4羽飼っていたことがあります。
 メジロを入れていたのはお手製の竹かごでした。
 竹かごをつくるときの竹ひごや、骨組みに竹ひごを通す穴開け道具など、すべて
自分で拵えていたのです。
 メジロもすべて自分で捕獲したものでした。
 胸の部分の黄色の模様によってメジロの優劣を区別していました。
 餌や水浴びの面倒も見ていました。

 このようにメジロの飼育に熱中していた私を、学校の成績表を持って帰ったとき、
余りにも成績の悪さに父は烈火のように怒りました。激しい叱責を受けた私は父に
反発して、鳥かごを壊し、メジロを全部解き放ったのでした。
 私が悔し涙を流したのは言うまでもありません。

 あれから何年経ったのでしょうか。
 散歩の途中でメジロの鳴き声を耳にすることも、姿を見かけることもあります。
 懐かしさに思わず「ツリー♪」と、口笛で鳴き声を真似することがあります。しかし
昔のような鳴き声になりません。さえずりの声を出そうとしてもしても出てきません。

 昔は口笛でメジロを呼んだものですが、もう呼べるような鳴き声を出すことはでき
なくなりました。
 それでもメジロは、私にとって、懐かしい小鳥であることに変わりはありません。

              鳴き声で分かるメジロの懐かしさ

メジロ

 
2009年
11月
26日

事業仕分けへの批判
 昨日の『必殺仕分け人』と題するブログでお分かりかと思いますが、私は民主党の
事業仕分けに敬意を表して見守り続けている一人です。

 日本に生存中のノーベル賞受賞者が、このたびの事業仕分けについて批判的である
ことは聞いていましたが、今朝の新聞の一面に『ノーベル賞学者ら苦言』という記事が
出ていました。

 科学技術予算を削減する判定が相次いだのに対して、ノーベル賞受賞者5人が記者
会見して、事業仕分けに苦言を呈しました。

 彼らの研究を支えたのは、小さな力であったかもしれませんが、国民であります。
 苦言は一見政権へ向けられたものと思いがちですが、実は私たち国民へ向けられた
ものであると言わなければなりません。

 国は国民から税金を徴収して各事業に配分しているからです。その配分によって学者
らは研究を続け、ノーベル賞を受賞したのです。

 ですから、ノーベル賞受賞者といえども事業仕分けに納得がいかなかったら、苦言や
皮肉ではなく、納得いかない理由をもっと丁重に、国民の誰にも分かるように説明すべき
だったと思います。少なくとも5人の苦言は、とげとげしいものでした。

               今日も行く事業仕分けの民主党

ノーベル賞

《追 記》 27日の朝刊に、ノーベル賞受賞者6人が、昨日(26日)首相官邸で鳩山首相
と会談し要望書を提出した、とありました。
「次の世代の豊かな未来への投資である科学技術に格別な配慮をされることを
要望する」

 この言葉に異論はありません。
 
2009年
11月
25日

必殺仕分け人
 テレビドラマの『必殺仕事人』を思わせるような民主党の『事業仕分け人』の活躍を
テレビや新聞で、このところ毎日私たちは見聞きしています。

 政権が自民党から民主党に替わり、私たち子育てを終えた者には負担が増えこそ
すれ減ることはないと、やや期待を裏切られた感じが濃厚でした。
 だが、事業仕分け人の活躍を知り、これからの日本の進路に薄日が差してきたよう
に思います。

 事業の仕分けで目を引くのは、不急不要のものに金をつぎ込んできた実態や無駄
遣いが明らかにされたことです。それも白日のもとに曝され、国民の誰の目にも明らか
になったのです。
 事業の「廃止」「見送り」、事業費の「削減」が続出しました。
 いままでになかったことです。

 野党になった自民党の役職者が
「国民から見て新鮮で面白い。何で自民党の時にしなかったのか」
 と、悔しがったということです。

 民主党の閣僚の中には「この仕分けは最終決定ではない」とか、「ある種の問題提起」
と受け止める向きもあるようですが、鳩山首相は「判定を重視しなければならない……。
……そう簡単にひっくり返る話ではない」
 と、言っています。
 更に重要なことは、鳩山首相が来年も事業仕分けを継続する意向を示したことです。

 国民の大半の人は、来年も再来年も、政権が替わっても、事業仕分けがずっと続くこと
を願っているに違いありません。

               ドブにゼニ捨てる事業よサヨウナラ

仕分け人
仕分け会場

               森繁さん死んでやっとこ受賞の栄
 
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